●HFC こんな歴史がありました! 
石崎 敏幸 総監督 筆

私と東岐波少年サッカーとの出会いは、昭和63年2月頃東岐波在住のいとこ(当時少年野球の役員をした)から少年サッカーの4年生を指導してみないかと 話があり、4年生の保護者に頼まれたこと、1回戦でいつも負けていて、せめて2回戦まで勝てれば良いので、と言う内容であった。
 それぐらいならどうにかなると思い引き受けたのだが、行って見ればボールが蹴れない、リフティングどころではない、そんなチームに戸惑いながら5年生の4月より指導を始めたのが最初であった。  当時東岐波サッカーは、サッカー教室を昭和44年に開設、深川武男氏が指導員として協会から派遣され、後に西田弘氏(東岐波在住)に引き継がれた頃は育成会がなく、各学年散々に運営されており指導者も1人、市内の大会も 各学年1回戦で負けていた。5年生だけを私1人が指導し、5年の保護者は全面的に協力すると言う中で指導を始め、 冬場の日没の早い時期は保護者が車を4〜5台グランドに並べライトの灯で練習したり、小野田、防府に練習試合に 行ったりと、着実にカを付けていき、そのかいあって、5年の終わりに念顧の優勝をし、6年生になって山口県体、山口県選手権出場、優勝も4〜5回したこと、また、6年生の保護者だけで第1回東岐波招待少年サッカー大会 を開催した事が昨日の様に思い出される。
 6年生卒業後1年間指導を止めていたのだが、平成3年4月6年生の保護者の金井良明、野村義信、高橋義明氏達の要請 を受け再度指導するはこびになった。平成2年にはFCチャオを設立していたので私の次男輝彦を含め6人の指導者 で各学年に応じた指導も出来る様になり同時に育成会を結成、サッカー教室より独立、体制も整いようやく他のスポーツ少年団と同じ状態こなり、現在に至っている。
赤いユニフォームの1回戦ボーイ、お弁当の要らないチームと言われたチームから特に、昨年は市内、市外招待試合を含め15回の優勝をし、又念願であった8年度全日本宇部地区の代表になり、山口中央大会で4位になった今日、これまで幾多の指導者に巡り合い、お付き合い頂いた事は、感謝の念で一杯である。
毎年卒団式に成せば成る成さねば−−−…−を監督から子供達への送る言葉としている。



宇部サッカー協会歩みより

●東岐波小学校サッカー教室 開校のあゆみ
コーチ 深川 武雄

昭和四十二年に、宇部市サッカー教室が開校し私も指導員の一員として協力することになり、開校当初から東岐波小の担当をし今日に至っている。  当時、私は宇部鉄工所(現宇部機械製作所)藤山寮に入っていた。当時は、自家用車が、現在ほど普及しておらず、私もバイクしか持ってい なかった。サッカー教室開校にあたり、各学校の指導員に誰がなるか、合議でいろいろ検討を重ねた。特に東岐波等市外地にある小学校は、交通の便が悪いことや、指導員がその近くに住んでいない等の問題で、人選が難行した。合議出席者の中で、私が一番若かった(二十二才)ため東岐波小学校を担当することになった。
 練習は、月二回以上となっていた。さて、東岐波担当になったのは良いが、練習ボールの持ち運びや 保管をどうするか、随分まよった。ボールは、スクール生四〜五人 に一個の割で、当初は三十人程度スクール生がおり、ボールは、六個位だった。当番を決め彼らに持たせるか、小学校に依頼し保管場 所を貸してもらうか等いろいろ考えたが、結局しばらくの間自分で持ち運ぶことにした。練習日になると、空気を抜いた四号ゴムボール五〜六個を網袋に入れ、空気入れとスポーツバッグを持ち、藤山寮の近くにある宇部市営バスの藤曲バス停から東岐波まで市営バスで通った。(片道四十分位かかる。)学校へ着くと、スクール生と一緒にボールに空気を入れ昼頃まで練習し、終わるとまた空気を抜き、再び市営バスで寮に帰っていた。これを何年続けられるだろうと不安をいだいたものである。
 ボールをたびたび空気の出し入れを行ったことと、ゴムだったので早く傷んだ。グランドの使用も、当時は、サッカー教室のみだったので、学校と地域の行事を避ければ良く、現在程不自由なことはなかった。試合のほとんどは、市街地の小学校で行われるので、当日は、スクール生には集団で、電車で往復してもらい、私は、練習の時と同じ様にボールと空気入れを持ちバスで向ったものである。このボールと空気入れ持参の方法を二年位続けた後、子供達に当 番を決めて渡し保管させる方法をとったが、ボール当番が練習にこなかったり、破れる率が高くなったりしたので、しばらくして又元の方法に戻した。それから四十六年頃まで続け、その後小学校に協力を依頼し、ボール置場を一部貸していただくことになり、ボール運搬の苦労がなくなり大変助かったのを覚えている。
ゲームの勝敗の方は、最初の数年はあまり良い成績ではなかった様に思うが、昭和四十六年頃から、同じ会社の岡本征男君、戸村豪君に指導の協力をしてもらい、彼らのお陰で優勝をさせてもらった。その後数回優勝をしているが、現在までスクール生の参加人数は、他校には敗けていない(昭和六十一年度も百人以上)が、優勝には、縁が薄いようである。
 指導員を始めて二十年になるが、最近はほとんどを東岐波在住で同じ全社の西田弘君に指尊してもらっており(私はゲームの時に審判で協力する程度)、彼には大変感謝している。また今年から小学校の先生にもご協力いただいている。
 サッカーの指導を通じ、いろいろな人達にお世話になったが、なかでも東岐波在住で市役所に勤務しておられる、白井義人氏には、東岐波小学校の校庭開放事業発足当時に、私が校区外からの指導員であったにもかかわらず、サッカーの指導員ということで、メンバーに入れる様、取り計っていただくと同時に、グランドの使用の件等についても、お力になっていただき、大変お世話になっている。
 その他にも、大変多数の人達に、協力していただき感謝している。本誌上をお借りし厚く御礼申し上げます。尚今後とも、よろしくお願いします。

●指導を始めた当時の我がチームの思い出
西田 弘

昭和五十六年五月、四年生チームは、サッカーの試合が、今日初めてである。開始早々、一点目が入る。キーバーは、やっと動きの止ったボールをつかまえて蹴った。ところがそれまでおとなしくしていた我がチーム全員は、敵がいなくなったのを、これ幸いと、ボールに集まり、中には声まで出して、廻りから蹴り上げる「チャンス!」相手側に攻めれば良いものを、廻りから蹴るものだから、ボールは、出る隙間もなく、右に行ったり、左に逃げたり、……この間、相手チームと主審は、あきれてセンターサークルの所で並んで待っていた。後は予想通りで何点入ったか、分らないので、一応十三対○にしておきましょうと、判定される。このメンバー、今年は、中学三年生、昔の試合、何人覚えているかな。

(補足説明) 深川 武男

彼が指導し始めてから、部員も増え、井関小学校との交流試合も行う様になり、ゲームも上位に進出出来る様になった。

 

●思い出
井関 豊/辻村 孝紅

「サッカー」

六年 井 関   豊

僕が三年生の時、兄はもうサッカーをやっていました。兄がサッカーをしている所を見ていると、おもしろそうでおもしろそうでたまりませんでした。それで僕は、サッカーをやろうと決めました。サッカーをやっていると、楽しいのと同時に、友達がたくさん出来て、サッカーに行くのが楽しみでした。またいろいろな思い出などがたくさん出来て、サッカーに入っていて、良かったとつくづく思います。中学校になっても、サッカーを続けようと思います。   

「サッカー」

六年 辻 村 孝 紅

ぽくは五年生の時転校して釆たけど、このチームは、みんな良い 人ばかりで、すぐみんなとなじめました。 ぼくが出た試合の最高は、準優勝で、こっちでは優勝できませんでした。名和田先生の練習は、きつかったけど、とてもたのしかったです。 六年生になって、一膠しか出来なかったけど、中学になってもが んばります。